2014年12月30日火曜日

『会う』ということ/表現されたもの・表現する者

ここ一ヶ月というもの、とても有り難いことに、
立て続けに好きな作家さん、御三方にお会いしてサインを頂戴したりする機会が得られまして。
そりゃあもう、しゃーわせで、ほわほわしているのでありますけれども、
この『好きな作家さんに会いたい/会いに行く/会う』ってのが、とても面白い最近で。

自分も少なからず『作品としてのイラスト』を展示したことがあるわけで。
『某かを表現していきたい』と思っている、表現者のハシクレですからして、
もしかすると、サインを頂戴する立場から、サインをする立場にもなり得るわけで。
(ここのところ、まったく展示活動をしとりませんけれども……)
だからこそ、なおさらに興味深いんであります。

『どういうことなんだろう?』
と考え始めた契機は、川上未映子さんのエッセイ『世界クッキー』
その中に、川上さんが太宰治のお墓参りへ行ったときのエピソードが書かれとりまして。





川上未映子:著『世界クッキー』講談社文庫
p170〜『墓石のまえで思うこと』より

(中略)
太宰のお墓を見つけて、お土産に持ってきた苺のケーキをぽんと置くと、他にはもう何もすることがなかった。誰もいない。この場所で、弟子の田中英光が死んだんだったな、と思い、そこから墓石をじっと見つめてみた。そして、死んだって、死んだ人に会えるわけじゃないのにな、と思った。
 どれくらい墓地にいたのかはわからないけれど、体が冷えてきたので戻った。住職が門のそばに立っていた。「みんな、何しに来るんだと思いますか」。なぜかそんな言葉が口から出てしまって、自分でも驚いた。住職は微笑んで、太宰さんに会いに来られるでしょうと、これまた慣れた様子で当然のように言うのだから、その途端、私は何だか白けたような、悔しいような、悲しいような気持ちになって、そうじゃないんですと言った。それからもう一度、そんなんじゃなくて、と言った。声は小さかった。じゃあ何しに来たんです? と訊く住職に、私はうつむいたまま、何にも、ひとことも、言えなかった。生きてたって、会いたい人に会えるわけじゃ、ないけれど。




そして、これに関連して、もうひとつ『会う』にまつわるエッセイがありまして。




川上未映子:著『世界クッキー』講談社文庫
p114〜『会いたいも、ただの言葉かしら』より

(中略)
問題は「会う」ということに、本や文章を読むだけでは得られない「善さげな何か」が確実にあるということで、その「善さげな何か」というものが、本や文章とは関係がなくはないということで、この「会いたい問題」「会ってみたい問題」は、結構な比率で事あるごとにわたしの背骨をノックする。
 たとえば人が、死んでしまって今はいない作家に対して一読者が「あの作家だけには会ってみたかった」と言うときに、満たしたいものは本当のところなんであるのだろうか。
 本や文章と違って「会う」という行為自体には流通できない何かがしっかりと満ちている。そう思えば作品や作家という枠組みに限らず、そもそも人が、ある人に会いたい、と思うのはなんでだろう。会いたいってなんだろうか。考えれば考えるほどにわからない。「会いたい」の根拠がないゆえにそれはとても絶対的で、圧倒的で、ものすごく当然であるがゆえになんだか「会いたい」がただの言葉にしか見えなくなる瞬間もあって。




この『世界クッキー』に書かれていたことが契機にもなったんだと思うんス。
トークショーへ応募したり、チケットを買ったり、ワークショップへ申し込んだり、と。
2014年が終わろうとしている、僅か1ヶ月の間に、
とても多く外へ出て、人に会い、感じ、
体感したことを考える、ということを繰り返したのでありました。

これらを経て感じたことが、
『表現されたもの』と『表現する者』の間にある、ギャップなんであります。

作家さんのトークショーというのは、
川上未映子さん、阿部和重さん、伊坂幸太郎さん、という錚々たる御三方。
川上未映子さんは、ラジオ番組の公開収録。
阿部和重さん、伊坂幸太郎さんは、共作『キャプテンサンダーボルト』刊行記念。
御三方、みな、ギャップが感じられて、それがとても面白くて興味深かったんス。

川上さんは、繊細な文学的描写とは違う印象を受けたんス。
とても元気で、にこやかで、キラッキラの、太陽みたいな明るさ。

阿部さんも、緻密で難解で重厚な小説世界とは逆の印象で、
とてもサービス精神に溢れた、明るく陽気で、ユーモアいっぱいの楽しさ。

伊坂さんは、ポップで、フックの利いた、やわらかなファンタジィ世界と逆で、
寡黙で、とても真面目で、口数が少なく、控えめ、けれどとても力強い。

どれも、これを書きながら思い返して、パッと出てきた印象ですし、
たった一回だけ、トークショーを体験しただけなので、
きっと違う面も多く持ち合わせておられるとは思うんですけれどもね。
でも、
トークショーで感じた印象は、このようなものだったんでありますよ。

違っていて当たり前なことなのだろうけれども
なぜか、どうしても『表現されたものと、ほぼ同質の気配を感じられる者』
というイメージが出来上がってしまうもので、
ご本人に『会った』ことで、そこにギャップが生じたわけであります。



これまで僕は『表現されたもの【だけ】』を知っていたわけです。
けれども遂に『【それを】表現した者』を知ったわけです。
『会う』というアクションを起こした結果、
『ものと者』の間にある差異を感じられたわけであります。

『表現されたもの』が好きで、それをたくさん知っていった場合、
『表現した者』に興味関心を抱くのは、とても自然なことだと思うんスけども、
『表現されたもの』だけに触れ続けていく中で抱いた印象が、
『表現した者』に触れたとき、どういう感触をもたらすのか。

逆もまた然りで。
『表現している者』が何を表現しているのか知らぬままに付き合いがあり、
『その者が表現したもの』の存在を知ったときに感じること。
それは、驚きなのか、納得なのか。

わかりやすい例を挙げてみると、
作品はとてもヘヴィだけれど、本人はとても陽気であったり(梅図かずおさんとか)
作品はとても楽しいのだけれど、本人はとても哲学的な寡黙さであったり(誰だろう?)
一方だけを知っていた場合の楽しさ(期待や思惑)と、
両方を知ったときに生じ始める、新しい面白さ(ギャップによる揺らぎ等)と。

中には、一致していると感じられる『ものと者』も存在していたりもするわけで。
この差が、何故、生じてくるのか。
というのは、答えが出てこない問いかもしれないんスけれども、
とてもとても興味深いんであります。



こんなことを体感してみると、
自分自身や、自分の周りにいる創作に身を置く人のことを考えるわけです。
あの人と、その作品。
僕と、僕の作品。
そこに感じられる差のようなものの存在と『ものと者』について。

自分自身のことは、正直、うまくわからんのですよね。
だからこそ、僕が作家さんにお会いして感じたようなギャップを、
『表現されたもの』しか知らない方は、感じるのだろうか?
『表現している者』しか知らない方は、感じるのだろうか?
それとも『一致している』と感じるのだろうか?
ということを考えるのは、とても面白いッス。

そして。
僕の『表現されたもの』しか知らない方は、
僕に『会ってみたい』と思うのだろうか?と。



なぜ『表現されたもの』だけに触れているだけでは満足できないんでしょうなぁ。
どうして『表現した者』に会いたい、会ってみたいと思っちゃうんでしょうなぁ。
そして、話をしてみたいと思うのだろうなぁ。

『会う』というのは、どういうことなんでしょうなぁ。



僕の、いま現在、一番大きな感覚を述べると、
『【ものだけ】を知っているよりも、より【もの】を理解し好きになれるだろうから』
なのかなぁ、と。

『ものだけ』を知っているときよりも、
『者』も知ったあとでは、
奥行きや、広がりが、格段に増してくるんスよね。

そして、より一層『表現されたもの』を好きになることができる。

好きなものを、もっともっと好きになりたいから。
だから『会いたい』と思っちゃうんだろうなぁ、と。

好きな作家さんのインタビューなんてものが雑誌などに載っていたとしたら、
読みたくなりますもんなぁ。

どんなことを、どんな風に感じて、考えているんだろう。
どんな喋り方をするんだろう。
どんな受け答えをするんだろう。

文字を読んだだけでは、その人の気配や声音、トーン、勢い、などなど、
そういった言語化しにくい、微妙な事柄を知ることはできないんスけれども、
それでも『知ることはできる』から、
だから、読みたくなる。
より一層『表現されたもの』を好きになれるから。

けれども、文字だけでは表現しきれない、
とても多くの微妙な事柄を、からだの全部で感じ取ることができるから、
『会ってみたい』と思い、
『会う』というアクションへと衝き動かすのだろうなぁ、と。

好きだから、会いたいし、
もっと好きになりたいから、会う。
そして『表現されたもの』と『表現した者』を、つなげたいんでしょうなぁ。

『ものと者』という関係性を持っていない、
純粋な友達に会う、ってことも、
きっと、同じような感覚でもって『会いたい、話したい』
ってのが無意識の中に在るんでしょうなぁ。

知れば知るほど、好きになれるから。
だから、会いたい、会う、話したい。
『ものと者』との間に横たわるギャップというものをも楽しみ、好きになれる。
そういう面白さがあるから、会いたい、会う、話したい。



すでに鬼籍へ入っている方のお墓へお参りするってのは、
もっと好きになりたいのに、嗚呼、あなたはこの石の下に眠っている。
もっともっと好きになりたいのに、残念です。
そんな気持ちを伝えたいという、好きだからこそ、衝き動かされる想いなんでしょうかねぇ。

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